岳の幟
岳の幟
天下の奇祭「岳の幟」のはじまり
別所温泉のある塩田平は、北海道の網走市に次いで日本で二番目に雨の少ないところ。
永正元年(一五〇四年=室町時代)に大干ばつがあり村人は村にそびえる霊岳、夫神岳(おがみだけ)に雨乞い祈願したところ恵みの雨が降ったということです。
それ以来夫神岳山頂に祠(ほこら)を立て、九頭竜権現(龗=おかみ)をお祀りし反物を奉納、感謝と祈願をしたのが始まりだといわれております。
また幟に使った反物でゆかたを作り着ると病気にならないともいわれています。
1997年(=平成9年)12月4日、* 選択無形民俗文化財に指定されました。
古い写真
天保二年別所村祭礼関係文書
天保二年(1831年)に、別所村で祭礼に獅子舞や子供のおどり等を催したいと藩に願い出したことについて、藩では祭りに併せて、百姓が年に一日の楽しみのために許可するが細々と条件をつけて堅く守るように、村役人に責任を持たせてあります。
近年の岳の幟
岳の幟は以前は毎年7月15日に行われていましたが、近年は社会事情などにより7月15日に最も近い日曜日へと変更になりました。
岳の幟で披露されている三頭獅子とささら踊りは、元来祇園祭の演し物とされていましたが昭和9年以降、岳の幟と祇園祭が接近していたため岳の幟の演し物として定着しました。
かつては上手(わで)、院内(いんない)、大湯(おおゆ)が輪番で幟を出し参加していましたが、昭和49年以降、分去(わかされ)が大湯から独立して4地区交代となり手替わりをして幟を持っています。(別所温泉は上記4つの自治会に分けられています)
民話「岳の幟」
岳の幟
今から五百年くらい昔のはなしだ。
この別所温泉の辺りはもともと雨の少ない所だが、その年はちっとも雨の降らない夏で、ひでりが続いておった。
畑や田んぼもカラカラに乾いて、作物は何一つ実らない。村の衆は、あらゆる雨乞いをやってみたが、何の効き 目もあらわれなかった。
これが最後のお願いと、別所村の奥にある夫神岳(おがみだけ)で、水の神様である九頭龍王さまにお祈り しようということになった。
「雨ふらせたまいな〜」「大雨降らせ給わば、あらんかぎりのお供え奉りそうろう〜」と唱えて、夫神岳の頂上に登り、長い布を振りかざして竜神を呼びながら、まつりを行ったと。
すると不思議や、夫神岳の頂から真っ黒い雲がわき起 こり、女神岳の方角に押し寄せ、山を覆ったかと思うと、どっと大雨が降り出し、三日も降り続いたんだと。
この雨のおかげで今にも枯れそうだった作物が甦った。そこで、喜んだ村人がお礼として音神岳の上に九頭龍権現を祀って、毎年幟をあげることになった。
これが別所温泉のお祭りである「岳の幟」の始まりという。
毎年七月十五日の朝早く、青竹に色とりどりの反物を繋げた幟を山の上に立て、九頭龍権現にお参りしたあと山を下って温泉街を練り歩くお祭りだ。
今では三頭の獅子舞と、女の子のささら踊りが加わって、賑やかな祭りになっている。
ところで、夫神岳の向こう側は青木村で、ここも雨の 少ないところだ。
山の上に九頭龍権現のお宮を建てるについて、お宮の向きを青木側にするか別所側にするかでおおもめだった。
そこで両方の村で相談の末、牛と馬を競争させて山へ登らせ、勝ったほうの村の方へ向けることになった。
さて牛と馬どちらをとるか籤引きしたら、青木は馬、別所は牛となった。
青木の馬は勢い良く走って登っていった。別所の牛はのろのろゆっくり歩いてゆく。
別所の衆はがっくりと頭をかかえていた。ところが、馬は途中で疲れて登れなくなって、ゆっくり行った牛が先に登ることができた。
それでお宮は 別所村に向くことになったという。
このことを喜んだ別所村では、一番上にあるお湯を「牛湯」と名付けたのだが、それがだんだん訛って、 今の「石湯」になったということだ。
* 選択無形民俗文化財
文化庁長官は、重要無形民俗文化財以外の無形の民俗文化財のうち特に必要のあるものを選択して、自らその記録を作成し、保存し、又は公開することができるものとし、国は適当な者に対し、当該無形の民俗文化財の公開又はその記録の作成、保存若しくは公開に要する経費の一部を補助することができる(文化財保護法第91条で準用する第77条)としており、この規定により文化庁長官によって選択されたものを、選択無形民俗文化財という。(Wikipediaより)